これは6月12日の日記のあとに書いている事を先に断っておきます。



生死。 人が生きていく中でどうしても避けられない生老病死という中で最も解決が難しいもの。それは死だと一般の答えでは思う。 個人的には『生』なのだが…

死。 死ぬとどうなるのかが分からない為、恐れられるのだと思う。
死ぬという事で、昔とても印象に残る学会の体験談を聞いた。


昔、ある所に中学生がいた。 骨肉腫という骨の癌にかかっており、両足はすでに切断していた。
母親だけが信心をしており、旦那とその両親、そしてその中学生は何もしていない。 旦那に至っては、母親が学会活動をする事を露骨に嫌がっていた。
旦那とその両親はもう、その中学生の事を諦めていたが、母親は諦め切れなかった。
ある時、その家族を見かねた20代中盤の男性が、かなり強引なやり方だが、深夜その男の子を連れ出し、入信させた。

信心をするにあたり、中学生から男性にいくつかの質問が出た。
『信心をすれば、僕は死なない?』 男性は言う。「絶対に死なない」
『切断した両足も生えてくるのか?』また、男性は言う。「当たり前だ。 この信心を何だと思っている!」

(正直、僕はこの手のハッタリが大嫌いである…)

あまりの確信に触れた中学生は翌日から、病院中に響くような声で題目(お経)をあげ始める。
医者も看護婦も、父親もその両親も止めたが中学生の彼は一向に止めなかった。

『怖いから。 死ぬのが怖いから』と言って。

これが12月の頭の事。 医者は12月の半ばごろに死ぬだろうと家族には伝えていた。


12月の半ば。 彼は死ななかった。
1月。死なない。
2月。死なない。

さすがに医者が驚き始める。彼は末期の癌患者である。 ここまで寿命が延びる方がどうかしている。

日付は忘れてしまったが、2月の恐らく22日だったと記憶している。 彼は最初に入信の時に連れ出した男性にこう語りかける。

『おじさん。 最初に僕は病気で死なない事と足が生えてくる事を聞いた時、おじさんは治るって言ってくれたよね。 僕はこの2ヶ月間。1日10時間の題目を上げ続けて、やっとその意味が分かったよ。 死なないって言うのは死ぬのが怖くなくなる事だね。 足が生えてくるってのは、一旦死んでからきれいな体に生まれ変わって来る事なんだね。 おじさん凄いね! おじさんの言ったとおりだったよ』

彼の病気に対する勝利宣言はこの時のこの発言だと思う。そして、次の日… 今度は家族とその男性を呼んだ。

『僕はこれで死んじゃうけど、一つみんなにしてあげられる事が出来た。 それは、この信心はすごいよ。 だって、僕は死ぬのが怖くなくなったんだから。 それどころか、お父さんや、おじいちゃん、おばあちゃんの事が心配なんだ』と。『だから、やって下さい。』と。
『最後に一つ残念な事がある。 それは僕と同じ年代の信心をしている人達の会合に出たかった』と。男性はすぐに「安心しろ! 県内の中学生を全員集めてやる!」


それがお葬式だった。  集った中学生380人ほど。
棺桶に向かって、希望の詩を歌い、
棺桶に向かって、未来への詩を読み、
棺桶に向かって、決意発表をした。
当時、会長だった池田大作氏も、彼に対してメッセージを送った。『21世紀の舞台で一緒に戦おう』と。 断っておくが、これはお葬式である。

弔という字が一切ないのである。 


これは、死というものに対して、真正面から向き合った一人の中学生の生きる姿勢が死ぬ事への恐怖を打ち砕いたと思う。


こんな話は世界でも多い。アンビリバボーでも出てきたりしていると思う。


要は、死ぬその瞬間の自分がどんな命の姿勢なのか! それはそれまで生きてきた自分の人生全てが襲い掛かってくる瞬間でもある。 最後の最後まで生きる戦いをする事はとてつもなく難しい。
だが、そこにこそ、人の命、オーラとでも言おうか。 それが最も輝く瞬間だと思う。