独裁者


少し面白い日記を見ました。

要約すると、「悲観主義も楽観主義も究極的には一切虚無だ」と。最終的には宇宙がどうなるのかわからないですからね。あっているでしょう。 で、結論の中に「最終的には一切が無になる事も踏まえずに楽観主義を唱えるのは口当たりのよい食べ物みたいで生命の味が足りないと感じてしまうのだろう」と。

まぁ、楽観主義だって言っても、最後はみんな無くなるし、そんな事も考えずに適当に言われても説得力ねーよ。という感じか…

僕は悲観主義にもなるし、楽観主義にもなる。人間みんなそうだろう。御金言には、「(ガンジスの川の水を)餓鬼は喉を焼く水と見る。人は普通の水と見るし、天人はそれを甘露と見る」とある。 何をどう捉えるかによって見方は変わる。
また、「浄土(仏が住むと言われている世界)と言い穢土(汚れた罪深い者が住む世界)と言うも、土に2の隔ては無い。ただ、自分達の心によって変わる」と…

戦時下の大地で、命の貴さを必死で守ろうとする人もいれば、平和な世界で人の生活を破綻させて私腹を肥やす人間もいるし…

だから、日記読んで思った事は失礼だけど「屁理屈だなぁ」と。 「人間がいない」って感じた。
これに関してはまた別の場所で書きたいけど、難しい事はどうでもいい。


いずれ全ての物は無に帰す。 そう言われても明日はやってくる。生きなければならない。楽観主義とか悲観主義とかを考える前に、そんな事すら考えられないままに散っている命もある。

自分の尺度を中心に持ってきて物事を見る場合、その真逆の世界を中心に持ってきて物事を見なければならない…
独裁者は全てを自分の尺度で測ろうとする所から産まれる。

そして、そんな生命の傾向性は誰の中にも種としてあるのだ。