毒気深入

これは法華経の28品の中の16番目、如来寿量品の中に出てくる言葉で、文字通り、毒気が深く入っている事を示す。
正確には、この言葉が出てくるのは良医病死の譬えという説法の中に出てくるのだが、傲慢な人間はみなこうではないかと思う。

以前の日記にも記したが、話「を」聞くのかどうか?と。
傲慢な人間は、目線が始めから上なのだと思う。似ているものに、自信家があるが、自信家は自らが積み上げてきたものの上に立っている。 これはこれで別の角度からは性質が悪いものなのだが…
ともかく、傲慢な人間はまず上からの目線なのだ。 見分ける時は、まず目を見て話を聞いているか。筋を通しているか。など、色々と判断は出来るけど、何が問題かと言うと、本人が自覚していない。

実は、タイトルの言葉の後に、まだ続きがあり、繫げて「毒気が深く入っているために本心を失う」となる。だから、これを本人達に指摘しても、短気だと逆ギレするし、そうじゃなくても、頭に「??」がついた顔でこちらを見てくる。

自信家は自らの歴史に眼前の問題を当てはめ、解決策を探る。 傲慢は始めから答えを決めてかかる。


そして、こういった傲慢の毒は誰の中にもある。
こういう、わかりきった文章を書く僕の中にこそ、その毒が最も深く入っているかもしれないのだ。


だから、確固たる哲学がいる。